慈仙寺の鼻
今年も、8月6日がやってきました。毎年8月6日は、8時15分に、お家で静かに黙とうします。
平和公園の目と鼻の先で生まれ、南側の地区が地元なので、子供のころは、平和公園で鳩に餌をやって遊んだり(昔は芝生で遊べたんです!)、平和学習をしたり、今は普段生活の場であり、愛着があります。
でも、8月6日になると、平和公園が、なぜか「近くて遠い場所」のように感じてしまい、当日、公園に訪れたのは、小学生の時一回のみ、記念式典にも参加したことがありません。
7月某日、作家仲間の一人、大西美穂さんのお花屋さんにお邪魔した時、偶然居合わせた方と3人で、まじめなこと、面白いこと、いろんなことをじっくり会話する機会がありました。
その時に、毎年、献花活動をされているお話しを聞き、それに賛同。間接的にではありますが、参加することが出来ました。
当日は、献花には間に合いませんでしたが、お昼前に平和公園にお参りに行きました。
記念碑の前で、世界各国から来られた方々が列を作って、お祈りされていました。
毎年、テレビからは、拡声器を持った人たちが、大声で訴えているような…なにか、物騒なイメージを持っていましたが、
実際は静かで穏やかでした。お天気が悪かったせいもあるのかな?
平和公園の中をゆっくり歩いて回りました。いつもは、自転車で駆け抜ける通り道ですが、知らないことが沢山ありました。
原爆供養塔をお参り。供養塔は、原初的なストゥーパを想像させる、盛り土になっています。
平和公園の北端の、元安川と本川が合流するエリアに、当時、このエリアは中島本町という広島の繁華街で、
慈仙寺という大きなお寺が建っていたそうです。それで、このエリアを「慈仙寺の鼻」と呼ばれていたのだそうです。
しかし、原爆投下直後、この場所は臨時火葬場となり、身元の分からない多くのご遺体が運び込まれ、焼かれたそうです。
「慈仙寺?聞き覚えがある名前だな。」と思いました。
そういえば、私のアトリエのある江波に、慈仙寺というお寺がありますが、戦後、中島町から、江波に移転されたのでした。
現在、平和公園に残っているのは、この五輪塔の、方形の「地輪」と、宝珠型の「空輪」(地下に埋もれている風輪が少し見えます)のみ。
お花も千羽鶴も何もお供えがないので、全く目立たないのですが、私は、ここが一番心にグサッと何かが刺さりました。
「地輪」の下、返り花の左側が少し浮き上がっているのは、爆風で五輪塔が浮き上がった時に、石がはまりこんだからだそうです。
五輪塔が浮かぶとは、どれだけすさまじい爆風だったのでしょう。。想像がつきません。。
五輪塔の周りのくぼみは、当時の地面だそうです。のちに、盛り土をされ、平和公園が作られたのだそうです。
なので、今でも、土の下に多くの人々の骨が埋まっているそうです。そうゆうことも知らず、今まで、自転車でのんきに通り過ぎていたのです。。
ちなみに、この五輪塔は、浅野藩の重役さんの墓石だそうです。空輪の大きさを見ても、立派なお墓だったことがうかがえます。
自分の馴染みある場所の歴史を、少しだけですが知ることが出来て良かった。
来年は、もっと早く起きて…(スミマセン。。笑)大西さんたちの活動に、参加出来たらと思っています。
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